ワタナベアニさんの著書『カメラは、撮る人を写しているんだ。』は、カメラの設定や撮影方法を教える技術書ではありません。レンズを通して「自分自身とどう向き合うか」を深く問う、心の取扱説明書のような一冊です。
この本を読む中で、自分自身の中にあった「ちょっとした謎」がすっと解け、写真と映像に対する新しい扉が開くのを感じました。今回は、そんな少し個人的で、でもカメラを持つすべての人に共通するかもしれないお話をしたいと思います。
過去・現在・未来の自分との対話
著書では、初心者のカズトとベテランのロバートの対話が進みますが、これは著者自身の「過去の迷い」と「現在の確信」が交差する内なる対話のようにも読めます。
そして非常に印象的なのが、未来のありたい姿として描かれる喫茶店のマスターの存在です。物語の終盤、物質的なこだわりは人がこの世を去れば「ただの駐車場」になってしまうという冷酷な現実が描かれます。しかし一方で、光や感情を定着させた「写真」には、時間を超えて人の心を揺さぶる確かな価値がある。カズトが撮った写真を見て、ロバートとマスターが涙を流すシーンには、「形あるものは消えても、記録された瞬間は未来へ残る」という強いメッセージが込められていました。
「カメラを持っていったのに、1枚も撮らなかった日」の正体
私はこれまで、カメラを首から下げて出かけたのに、結局シャッターを一度も切らずに帰ってきてしまうことが何度もありました。特に自分の視野に近い標準レンズをつけている時に、よくその現象が起きていました。
「今日は撮るものがなかったな」と少し残念に思っていたのですが、この本を読んで、実はそうではなかったことに気がつきました。
著者は「なぜそれを撮ったのか、言葉で説明できるべきだ」と説きます。そこから導き出された私の答えは、「言葉で説明できないし、したくないから、撮らなかった」という事実でした。
目の前の景色、風の冷たさ、周囲のざわめき。それらを無理に四角いフレームで切り取り、「意味」という言葉を与えてしまうと、その豊かな空間がこぼれ落ちてしまう気がしたのです。対象物を前にして心がフラットな「無心」の状態だったからこそ、エゴを挟んで表現する必要がなかった。つまり、「撮らなかった」のではなく、「全身でその場を味わうことを選んだ豊かな時間」だったのです。
写真と動画、2つの視点の往き来
そんな気づきを経て、最近は「動画」の表現に強く惹かれています。自分の中にある2つのスイッチの違いが明確になったからです。
- 写真脳: 連続する時間の中で、心が動いた瞬間を「点(句読点)」として切り取り、表現したい。
- 動画脳: 言葉に縛られず、今ここにある空気や音、躍動感を「五感」のまま残したい。
言葉で説明できないほどの情報量や温度感を、そのまま真空パックのように包み込めるのが動画の力です。
答えは観る人に委ねる
言葉を手放し、五感を記録しようとした時、映像の構成はごく自然とシンプルなものになっていきます。
- 味わう人を映す: 対象物を前にして、五感で何かを感じ取っている人を映す。
- 自分の眼差しを重ねる: その人が見ている対象物を、自分の視点として映す。
- 委ねる: あえて言葉で説明せず、映像を観た人の解釈や感情に答えを委ねる。
「ここは美しい場所です」とテロップを入れるより、はぜる炎の音や、それを見つめる人の息遣いをそのまま届ける。それこそが、観る人の記憶や感情と一番深く結びつく表現なのだと思います。
自然体で、世界と向き合う
映像の解釈を観る人に委ねるということは、裏を返せば、自分自身の「こう表現したい」「分からせたい」というエゴを手放すことでもあります。
だからこそ、これからのカメラとの付き合い方も、もっと「自然体」でいいのだと今は思えます。無理に「良い作品」を撮ろうと気負う必要もなければ、常に意味を探してシャッターを切り続ける必要もありません。
心が動いた瞬間があれば静かに記録を残し、言葉にできない豊かな空気を感じたら、カメラを下ろしてただ無心にその場を味わう。撮っても、撮らなくても、そこにはただ「五感で世界を受け取っている自分」がいるだけです。
「カメラは、撮る人を写しているんだ。」
もしそうであるならば、レンズの向こう側の世界をコントロールしようとするのではなく、まずは自分自身が自然体で、目の前の景色や音、そこにある温度と調和すること。それこそが、一番残す価値のある「今の自分」の写し出し方なのかもしれません。