三宅香帆さんの著書『考察する若者たち』(PHP新書)を読みました。 映画やアニメを観た後、現代人はなぜ「自分なりの解釈(批評)」ではなく、ネット上にある「考察(正解)」や「ネタバレ」をすぐに探してしまうのか。
「時間を無駄にしたくない」「解釈を間違えて恥をかきたくない」という最適化の欲求や、アルゴリズムが作り出すタコツボ化など、現代社会の心理を鋭く読み解いていて非常に面白い一冊でした。
この本を読み進めながら、自分のこれまでの現場経験や組織でのマネジメントの視点と照らし合わせると、これは単なる「若者のエンタメ消費の傾向」にとどまらないのではないか、といういくつかの個人的な「仮説」が浮かんできました。
「正解探し」の原体験はどこにあるのか?
なぜ、現代人はこれほどまでに「最適化された正解」を求めてしまうのでしょうか。ひとつの仮説として、日本の初等教育における国語のテストが影響しているのではないかと感じています。
「この時の主人公の気持ちとして最も適切なものを選べ」といった問題で、私たちは幼少期から「大人があらかじめ用意した出題者の意図」を空気を読んで当てる訓練を受けてきました。
この「正解を当てるOS」が大人になっても稼働し続けるとどうなるか。組織において、優秀な人ほど上司や会社の「正解」を最短距離で当てにいこうとします。リーダーの意図を過剰に「考察」し、同調しすぎてしまうことで、結果的に自分自身の視点を持たない「劣化コピー」になってしまうリスクを孕んでいるように思えます。
データへの過信と「三現主義」の喪失
また、職場で上司の意図を探る際にも、発言した内容だけで「正解」を出そうとする傾向が見られます。
ちょっとズレた話題をぶつけてみて、相手がどんな表情をするか、声のトーンがどう変わるか、沈黙の「間」にどんな空気が流れるか。そうした五感を使った「三現主義(現場・現実・現物)」的なコミュニケーションの摩擦を、「失敗」として避けているのかもしれません。
本書ではAIとアルゴリズムの弊害について触れられていますが、現在のAIは過去のデータに基づく統計的な推論であり、「正規分布の頂点」をあたかも答えのように持ってくるだけの存在です。SNSのアルゴリズムが作るバズも、AIが出すテキストも、本質的には同じ「ノイズを排除した最適化」の産物です。こうしたテクノロジーの性質を理解せずに依存しすぎると、人間の身体性や五感を通じた気づきがますます失われてしまう気がします。
西洋の「知識体系」と日本の「三現主義」のバランス
ビジネスの文脈で考えると、これは西洋と東洋の思考のバランスの話にも繋がってきます。
- 西洋的なアプローチ(知識体系): 目的を合意し、要素を分解し、因果関係を整理して全体像をマネジメントする「トップダウンの計画」。
- 日本的なアプローチ(三現主義): まず現場・現実・現物があり、オペレーションを回しながら、その中でカイゼンしていく「しなやかな適応」。
どちらが良い悪いという二元論ではありません。巨大なシステムや組織を維持・スケールさせるためには、西洋的な知識の体系が不可欠です。しかし、日本のように「自然災害」というコントロール不可能な巨大なノイズが常に存在する環境では、完璧な計画だけでは白紙に戻された時に心理的に参ってしまいます。だからこそ、現場に立つ一人ひとりが状況を見て考え動く、三現主義的な適応力が社会インフラを持続させてきました。
生存戦略のバトンパスとしての「同調」
考えてみれば、東日本大震災の際、実働部隊のコアである30代を担っていたのは「就職氷河期世代」でした。あの極限状況下で社会機能がなんとか持ち堪えたのは、現場の泥臭いオペレーションと、「みんなで生きよう」というある種の利他的な絆(同調)が機能したからだという見方もできます。
ただ、バブル崩壊後の余裕のない時代を生き抜き、未曾有の災害を現場で経験したこの世代は、その過酷さゆえに、無意識のうちに子どもたち(今の若者世代)へ「失敗しないための最短ルートを歩め」という生存戦略を植え付けてしまったのかもしれません。
若者たちが摩擦を避け、データが示す「正解」に同調してしまうのは、決して彼ら自身の主体性の欠落ではなく、就職氷河期世代が生存していく中で作り上げてきた「失敗を許さない空気」への、極めて優秀な適応の結果ではないか――そんな仮説も頭をよぎります。
これからの時代に必要な「余白」
VUCAと呼ばれる現代は、ビジネスの世界全体が自然災害のような「偶発性と巨大性」を持つようになりました。だからこそ、多くのビジネスパーソンが東洋思想や現場の適応力にヒントを求めています。
西洋的な体系化による「論理的な計画」と、東洋的な三現主義による「現場のノイズを含んだ適応力」。これからの時代は、この二つのバランスをどう取るかが問われています。
効率化や最適化が行き着く先で、私たちが少しだけ意識すべきなのは、あらかじめ用意された「正解」を考察することではなく、五感を通じた摩擦や、自分だけの「主観(ノイズ)」に焦点を当てることなのかもしれません。