就職氷河期世代の労働環境や格差をマクロな統計データから読み解いた書籍(近藤絢子著『就職氷河期世代』)を読みました。
データを用いて社会の構造を説明しようとするアプローチは論理的ですが、読み進めるうちにある種の「違和感」が膨らんでいくのを感じました。平均値や分類だけで語られる世界からは、一人ひとりの生々しい現実や、現場の熱量、そして複雑な「にじみ」であるグラデーションがすっぽりと抜け落ちてしまっているように思えたからです。
この違和感について深く思考を巡らせてみたことで、現代社会が抱える課題と、そこから自分がどう動いていくべきかということに気づくことができました。
「Doing(評価)」の社会で失われたもの
長く続いた厳しい競争社会の中で、私たちは生き残るために「誰かが作った正解」をいち早く導き出すトレーニングを積んできました。効率や成果など、「何ができるか(Doing)」という条件付きの評価ばかりが重視され、感じる前に「こうすべき」と頭で考えるOSが社会全体にインストールされてしまったように思います。
さらに、核家族化、パーソナライズが進んだことで、「ただそこにいるだけで嬉しい」「何をしていても全肯定する」といった、かつてのおじいちゃんやおばあちゃんが担っていたような「無条件の肯定(Being)」のシャワーを浴びる機会が圧倒的に減ってしまいました。
確固たる「自分軸」という第一の土台(無条件の肯定)が空っぽのままでは、どれだけ「第3の居場所」や自由な時間が与えられても、そこを「新たな他者評価の闘技場」にしてしまい、息苦しさを生んでしまいます。
「空白」は、私たちがデザインできる最大のチャンス
一見すると根深い問題のように思えますが、見方を変えれば、これほど明確な「伸びしろ」はありません。世の中から「無条件の肯定」や「五感で感じる余白」が失われているのだとしたら、それらを意図的に身の回りにデザインしていくことこそが、これからのコミュニティや組織における最大の価値になるはずです。
正解探しを急ぐのではなく、評価の鎧を脱ぎ捨てて、ただそこにある熱量や変化という「ノイズ」を一緒に楽しむ。
例えば、損得勘定なしに多世代が交わる地域の音楽祭や、伝統的なお祭りのような場。そこは、会社の肩書きやテストの点数から完全に切り離され、ただ同じ空間で空気を共有するだけで存在が承認される、現代における「大きなおじいちゃん・おばあちゃん」のような役割を担える可能性を秘めています。
五感をチューニングし、変化し続ける「今」を撮る
何か大きな社会変革を起こそうと肩肘を張る必要はありません。まずは、自分自身の手の届く範囲から。
日常のプロジェクトや、人が集まる場において「効率」や「絶対的な正解」を急ぐ空気が生まれたら、あえてそこに「意味のない余白」をそっと置いてみる。理屈で説得するのではなく、五感をチューニングして、一時たりとも同じではない「新鮮な変化」を面白がる空気を作っていく。
失われた余白を嘆くのではなく、自らの手で心地よい「間」を創り出していく。そんなプラスの連鎖を生み出すことに、これからも時間とエネルギーを注いでいこうという気持ちが高まりました。